-
Period: to
德川家綱(1641-1680)在位
江戶幕府第四代征夷大將軍 -
Period: to
靈元天皇(1654-1732)在位
年號:
寛文(1661-1673)
延寶(1643-1681)
天和(1681-1683)
貞享(1684-1688) -
零歳
出生。 -
十一歳
母箸尾氏、没。 -
Period: to
德川綱吉(1646-1709)在位
江戶幕府第五代征夷大將軍 -
十三歳
父親直、没。
異母妹と共に父の母方の従弟大村参太郎に引き取られる。 -
十五歳
父の知人真野某に懇望されて養嗣となる。 -
十七歳
初めて河瀬菅雄に従学。 河瀬菅雄(1647-1725)
江戸時代前期-中期の歌人。正保4年生まれ。 飛鳥井雅章(あすかい-まさあき)にまなび,京都にすんだ。
「増補和歌道しるべ」「まさな草」などを編集し,実作を指導した。
門人に陽明学者三輪執斎らがいる。
享保(きょうほう)10年2月23日死去。79歳。
号は酔露堂(軒)。庵号は的堂。 -
十九歳
佐藤直方(さとうなおかた)の門に入る、直方は崎門三傑の一と称せられた大儒。 佐藤直方
[生]慶安3(1650).10.20. 備後,福山
[没]享保4(1719).8.15. 江戸
江戸時代中期の朱子学派の儒学者。通称は五郎左衛門。
京都で山崎闇斎に学び,崎門三傑の一人と称される。
福山,前橋,彦根各藩の藩儒を歴任。
闇斎の垂加神道説,敬内義外論に反対して破門された。
著書『うん蔵録』『排釈録』『四書便講』『道学標的』など。 -
Period: to
東山天皇(1675-1710)在位
年号:
貞享(1684-1688)
元祿(1688-1704)
寶永(1704-1711) -
二十歳
師の直方から、他姓を嗣ぐ不孝を諭され、三輪姓に復帰する。 -
二十二歳
師直方の命で京都の邸舎で『小学』を講じる。 -
二十三歳
直方が編した『四書便講』に跋文を書く。 -
二十四歳
直方の推挙するにより、上野厩橋(うまや)の酒井忠挙(1648-1720)の儒官に召される。 -
二十七歳
酒井忠挙の禄を辞し、本郷菊坂に退居し、躑躅(つつじ)・芥子(罌粟・けし)・菊を作り、自適の生活に入る。 -
二十九歳
菊坂の寓居を引き払って京都に帰り、御所の西南隅に寓居を構え、その東窓を「弄月」と名付けた。 執斎の学道は白熱化し、頻りに先覚を探訪した。 -
三十歳
「王文成公全書」を手入し、『伝習録』・『文録』を熟読し、契合するところがあるのを覚え、この書を携えて上賀茂の神山に退隐。 -
三十一歳
「酒井弾正に答ふる書」によって、陽明学に転じて第一声を標榜するが、この書簡は、軈て直方の激しい批判の的となり、破門されることとなる。 -
三十二歳
三宅瀾斎を通じて徳川光圀に上賀茂における道業に対する物的援助を請う。 -
三十三歳
住を「執斎」と名付ける。 -
三十四歳
「執斎日用心法」を著わす。 -
Period: to
徳川家宣(1662-1712)在位
江戶幕府第六代征夷大將軍 -
Period: to
中御門天皇(1702-1737)在位
年号:
寶永(1704-1711)
正德(1711-1716)
享保(1716-1735) -
四十四歳
初めて新刻本が完成するや、執斎は一本を奠して王陽明を祭った。この日は奇しくも王陽明生誕の成化八年九月三十日と干支月日が一致する。彼はこの契合を「和漢万世・未曾有の一遇」と述べている。 『標註伝習録』には、王陽明の『略年譜』及び『大学問』を付加し、また的確に標註していて、陽明学入門書として十分なものと言える。 -
四十四歳
松平信庸の後援のもとに『標註伝習録』上梓。
『伝習録』の注釈書は、陽明学に対する否定的評価とも絡んで、中国では出現しなかったから、この『標註伝習録』が和漢を通じて最初の物である。 -
四十五歳
この頃、佐藤直方は、嘗て執斎の陽明学への転向が名利の為でなく、己の為であることを理解するに至り「あひ見ること故のごとくした」という。 -
Period: to
徳川家継(1709-1716)在位
江戶幕府第七代征夷大將軍 -
四十六歳
松平信庸、老中になる。 -
四十七歳
松平信庸、中風症で倒れる。 -
四十八歳
家族を伴って江戸に移り、信庸の屋敷に隅居し、信庸の再起を祈願する。 『周易進講手記』を脱稿する。 -
四十八歳
松平信庸、老中に辞任 -
Period: to
徳川吉宗(1684-1751)在位
江戶幕府第八代征夷大將軍 -
四十九歳
摂津平野郷に土橋友直(1685-1730、号は誠斎。執斎とは河瀬菅雄の同門で、陽明学を尊信していた。)を中心とした町人共同経営の学塾含翠堂が発足。 -
四十九歳
松平信庸、没。 -
五十一歳
川田雄琴(1683-1760)、入門。 江戸時代中期の陽明学派の儒学者。梁田蛻巌,三輪執斎に学ぶ。明倫堂教授,大洲藩に出仕。実践を重んじた。著書『大洲好人録』『基琴郷集』。 -
五十一歳
師佐藤直方、没。 -
五十三歳
この頃、見性を体験し、「夕べに死すとも可なり」の心境に悟達するしたという。 『抜本塞源論私抄』を著わす。 この頃、『古本大学講義』、改訂増補。 -
五十六歳
四(三?)男為之丞らと藤樹書院に詣でる。『先哲叢談』に、士民を集めて学を講じた。四座みな感泣してこれに服し、翕然とあい謂いて藤樹先生の再生となした、とある。 -
五十八歳
秋、下谷泉橋の北に、明倫堂を開き、伝道教化の本拠とする。 執斎は明倫堂の扁額を友人細井広沢に依頼し、王陽明画像・中江藤樹の真蹟「致良知」を揚げた。 -
六十歳
この頃から、痰咳を病み、これが宿疾となる。 -
六十四歳
明倫堂を下谷二長町の四男為之丞の家の敷地内に移す。 -
六十三歳
『正享問答』を著わす。この書は、松平信庸(1666-1717)や小浜久隆(?)の諮問に答えた筆記を集録したもの。 -
Period: to
桜町天皇(1720-1750)在位
年号:
享保(1716-1736)
元文(1736-1741)
寛保(1741-1744)
延享(1744-1748) -
六十九歳
宿疾(痰咳)の身を故郷で終ろうと、明倫堂を閉して京都に帰る。 -
七十一歳
建仁寺内の両足院に父母の墓碑二基を改めて建立し、その後ろに自らの寿蔵(生前の墓)を営んだ。 -
七十三歳
川田雄琴、執斎の委託により藤樹書院に詣て、孔子・王陽明の画像と藤樹真筆の「致良知」に金子を添えて奉納した。 -
七十五歳
最後の著述『竜雷伝詳説』成る。 この年の末、病勢加わる。 -
七十六歳
前日、先祖の霊前に参拝の後、親族知人から家僕に至るまで、残らず永訣を告げ、午後二時、筆を執って「寛保四年甲子正月二十五日、三輪希賢死」と自ら鬼籍を録した -
七十六歳
朝四時頃、晏然として没した。 -
Period: to
徳川家重(1712-1761)在位
江戶幕府第九代征夷大將軍